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しっぽが書いたものもの。
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涙が零れた。
一粒だけ。
たった一言、口に出しただけなのに。
それなのにあたしはどうしちまったんだろう。
自分でも予想外の出来事に震えた。
感情のコントロールが利かないことに恐怖を覚えた。
 
そして
その日から、あたしはその言葉を口にしなくなった。
可怕かったのだ、自分の気持ちが。
恐ろしくなったのだ、コントール出来なくなった躯が。
 
可怕い、可怕い。
厭だ、厭だ。
逃げたい、逃げたい。
 
未知のものは恐ろしい。
 
宇宙海賊をしていた時は、可怕いものなんて何もなかった。
それなのに、その頃には比べ物にならないほど、あたしは臆病になってしまった。
何よりも、自分の感情が恐ろしい。
どうしたら良いのか分からず、時々逃げ出したくなる。
 
こうして、胸の中で、たった一言呟いだだけで、
また涙が溢れそうになる。
それが何だか分からず、あたしは怯えた。
 
 
ある日、天地があたしに尋ねた。
 
「最近、元気無いけど、どうかしたのか」
 
そんなことないよとあたしは笑う。
 
「そうか?でも…」
 
あたしが抱き付いて来ないなんて、何処か具合でも悪いのかと思ったよ、
と天地が笑う。
 
違うよ、天地。
そんなんじゃないんだ。
だけど、あたしは可怕いんだ。
このあたしの中に溢れる感情が。
訳も分からない自分の心が。躯が。
 
ほら、今だって、お前の背中を見つめて
たった一言、胸の中で囁いただけで
目の前が滲む。
 
目を見つめて言ったなら、あたしはお前の前で号泣してしまいそうだ。
 
切なく揺らぐ心で
あたしはもう一度、その背に呟く。
お前に聞こえないほど小さな声で一言。
 
「好きだ」
 
 
ああ、また感情が溢れる。
天地の背が霞んで歪む。
 
なあ、天地。
あたしはもう一生、お前に言えないかもしれないよ。
こんなに切ない言葉は。
 
涙がまた、一粒、
あたしの頬を転がった。
 
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早く早く。

早く大人になりたいと思った。

見上げなくても済むように。

しゃがんで貰わなくても良いように。

 

早く早く、並んで一緒に景色が見たい。

横顔をそっと見つめて、目が合って照れたりしたい。

 

早く、今すぐにでも。

 

そう思っていたのに…。

 

魎呼お姉ちゃんがお姉様の手を弾いて、お姉様のりんご飴を落とした時、

天地兄ちゃんは目を吊り上げて魎呼お姉ちゃんを叱ったけど、違うんだよ。

私は知ってる。

魎呼お姉ちゃんは天地兄ちゃんと手を繋ぎたかったの。

お姉様も天地兄ちゃんと手を繋ぎたかったの。

それで、お姉様はそっと天地兄ちゃんの手に触れようとしていたの。

大胆だなと私は思った。

お祭りって何だか賑やかで、その中では皆何でも許される気がして、きっと少し特別な事がしたくなるんだ。

 

魎呼お姉ちゃんは、その様子を後ろから見て居たんだと思う。

新しい浴衣を着て、うきうきしていた魎呼お姉ちゃんは、でも不器用で照れ屋な人だから、天地兄ちゃんと並んでお祭りを楽しむなんて大胆な事出来なかったんだ。

浴衣姿の天地兄ちゃんの背中を見ながら後ろから付いて行く事しか出来なかったんだ。

そして、見てしまった。お姉様が手を繋ごうとしている事。そうして、きっと天地兄ちゃんもそれを受け入れてしまうところ。

 

天地兄ちゃんは気付いてなかったのかな。

「魎呼、いい加減にしろ」とお兄ちゃんが怒った時の、魎呼お姉ちゃんの酷く傷付いた瞳に。凍りつくような眼差しに。

気付いてないとすれば、天地兄ちゃんは酷い人。酷いくらい鈍感な人。

お姉様はずるい人で、天地兄ちゃんは酷い人。

そして私は―――――。

 

花火を見た時だった。

恥ずかしいからいいって私が言ったのに、天地兄ちゃんは「見えないだろうから」と言って、私を抱き上げてくれた。

その腕の体温と天地お兄ちゃんとの顔の近さにドキドキした。

でも、本当にドキドキしたのはその後。

「暗くて足元が危ないから」って天地兄ちゃんは自然と私の手を取ってくれた。

先刻、お姉様が繋ごうとした手。

魎呼お姉ちゃんが繋げなかった手。

それを私は簡単に繋いでしまった。天地兄ちゃんに繋いで貰った。

抱きあげられる事も、手を繋ぐ事も、こんなに簡単に私は出来てしまう。

ごめんね、魎呼お姉ちゃん。あんなに傷付いた瞳をしていたのに、私は笑顔の天地兄ちゃんに見つめられ、いとも簡単に天地兄ちゃんの心を掴んでしまいました。

ごめんね、私もお姉様と同じ様にずるい人間。

ううん、きっと私の方がお姉様よりもずっとずっとずるくて醜い心を持っている。

 

「また来年もお祭り来ようね」

と天地兄ちゃんは私に笑いかけた。

うん!と頷いて私は思う。

天地兄ちゃん、来年もその次も一緒に来よう。

来年もその次も、私はこのままがいい。

酷く残酷な醜い子どものまま、貴方の心を私は繋ぎ止めて生きたいの。

 

風が頬を撫でる。

縁側で庭先を見ながらかき氷を食べていると、隣りに座った魎呼が一口寄こせとせっついて来る。先刻あげたのにまた一口くれと言い、冷蔵庫に行けと言えばお前が食べているのが美味そうだと言い募る。

大体、魎呼は我儘だ。先日の夏祭りの時だって、俺が阿重霞さんとりんご飴を食べていたら突然現れて、阿重霞さんが食べていたりんご飴を地面に落とす様な真似をするし、その事を攻めれば、あれは阿重霞も悪いと眉間に皺を刻んで怒る。俺から言わせれば、あれはどう見ても魎呼が悪かった。阿重霞さんが魎呼の浴衣に餡を付けようとした事は知らないけれど、魎呼から先に阿重霞さんに喧嘩を売ったのだから。

 

「だからさあ、お前はどうして…」

 

俺が説教を始めれば、ぶうっと膨れっ面をし、どうしていつも自分ばかりを叱るのかと機嫌を損ねる。俺としてはそんなつもりはない。何方一方を贔屓などしていないはずだ。

けれどもそれでも魎呼は瞳をギラリと光らせて、自分ばかりが叱られて面白くないと横顔で俺を睨む。

 

「…分かったよ、今度からは一緒に叱るよ。でも、魎呼が一歩引いてくれれば阿重霞さんだって魎呼と喧嘩しようとは思わないんじゃないか」

「何であたしが一歩引かなきゃなんねぇんだよ」

「え…」

「あいつが引けば良いだろう」

 

皇女様の阿重霞さんが引く訳がない。あの人は、ああ見えて頑固で負けず嫌いだ。頑固で負けず嫌いなのは魎呼もそうだけれど、阿重霞さんの方が頑なだと俺は思う。

魎呼はそのまま不貞腐れた様子で庭先を睨んでいる。

ああ。どうしたら彼女達は喧嘩を止めるのだろう。喧嘩を全くするなとは言わない。それが理想だけれど、彼女達の性格上それは無理だと思う。それならばせめて、派手な喧嘩は止めて口喧嘩程度のものにして貰いたい。被害が最小限のものに。

 

大きな溜め息が出る。ほとほと困った俺は魎呼に尋ねる。

 

「…阿重霞さんの事、嫌いか?」

「嫌いじゃない」

「じゃあ…さ、」

「嫌いじゃないけど好きじゃない」

 

好きじゃないのは知っているけれど…それでも、もう何年も一緒に暮らして居るのだから、それなりに折り合いがつけられるのではないだろうか。

魎呼は地面を睨んでいたけれど、その瞳はもっと遠く、別の場所を見据えている様にも見えた。何をそんなに怯えているんだろう。睨みつけているものの、その瞳には不安そうな色が浮かんでいた。こんなに近くに、隣に居るのに、何に怯え、何を恐怖に感じているんだろう。

 

「かき氷やるから、機嫌直してくれよ」

 

ガキじゃねぇんだぞと魎呼が膨れるかと思ったが、魎呼は何も言わず俺の手からかき氷を受け取った。素直なその様子に俺が驚いていると、目を伏せレモン色の溶けかかった氷をじっと見つめた。その真剣な眼差しと少しだけ悲しみを帯びた表情に何だか胸が痛くなった。こんな顔の魎呼は厭だ。魎呼に笑って貰いたい。魎呼にこんな表情は似合わない。

 

「そうだ、今度コンビニに行ったら魎呼の好きなかき氷も買ってやるよ。何が良い?」

 

魎呼に気分を変えて貰いたくて、俺はそんな事を訊いた。

魎呼は顔を上げるとおずおずと言った。

 

「……天地も一緒に買いに行ってくれるのか?」

「うん、良いよ」

「あたしも一緒に行って良い?」

「良いけど…」

 

何でそんな事を尋ねるのだろう。俺が魎呼の好きな味を選んで買って来るのでは不満なのかな。

俺がそんな事を考えていると、魎呼が瞳を輝かせた。

 

「じゃあ、デートだな、コンビニデート」

 

夏の陽射しにも負けない程、キラキラとした瞳で見つめられ、正直俺は慌てた。

そんなに嬉しいのか。俺とコンビニ行くだけで?

それだけでこんなに眩しい程の顔を向けて来る魎呼が少しだけ愛おしい。

 

「コンビニデートって…」

「だって、そうだろ?ふふ、楽しみだぜ、天地ぃ。あ、どうせなら毎日行くか?」

「毎日行って、かき氷買うのか?」

「そう。今のコンビニは色んな味のアイスとかかき氷置いてあるってこの間テレビで言ってたぜ」

「…そんなに食べたら腹壊すよ」

「デートのためならそんなの平気だよ」

 

ふふふと魎呼が世にも嬉しそうな顔をする。

全く、仕方がない奴だなと俺が言うと、良いじゃんかと幸せそうに咲った。

 

本当、俺も大概甘いなあと思う。

きっと明日にはコンビニへ行こうと魎呼は俺の腕を取るだろう。

そして俺は何だかんだ言っても魎呼と一緒にコンビニへ行ってしまうのだ。

その笑顔に負けて。

魎呼にはこの顔が一番似合うと思うから。

 

俺を嗤うかの様に、チリリンと風に乗って風鈴が揺れた。

「なあ、一口くれよ」

「先刻あげただろう」

「ほんのちょっとじゃんか。一口くれ」

「あのなあ。…ったくそんなにかき氷食べたいのなら冷蔵庫に入っているから持ってくれば良いだろう」

「天地のが良いんだよ。お前、美味そうに食うから」

「人のを横取りするな」

「人が食ってるのは美味そうに見えるもんだろ?な、だからもう一口」

「…全く、お前って奴は」

「何だよ、かき氷くらい良いじゃないか。夏祭りの時は阿重霞にりんご飴食べさせてたくせに」

「あれは、お前が阿重霞さんのりんご飴を地面に叩き付けたからだろう?」

「阿重霞が離さなかったから結果としてそうなっただけであたしの所為じゃないだろ」

「いいや、あれはどう見てもお前が悪かった。お前が阿重霞さんのりんご飴取り上げて、揉み合って、阿重霞さん突き飛ばして、挙句、りんご飴落として」

「何言ってんだよ、あいつだって悪りぃんだぜ。あたしの新しい浴衣にりんご飴の餡をわざと付けようとして」

「わざとじゃないだろう?」

「いや、あれは絶対わざとだ」

 

天地が大きく溜め息を吐く。やれやれという顔だ。どうしてお前はそうなんだよって説教が始まるのが分かる。いつもの事だから。

 

「だからさあ、お前はどうして…」

 

ほら始まった。阿重霞ともっと仲良くしろとか、仲良くできなくても良いから普通に接しろとか、少なくとも町中で祭りの最中に派手な喧嘩は止してくれとか、天地はそんな事をあたしに繰り返して説いてくる。

 

「良いか、わかったな魎呼」

「わかんねぇよ」

「何で、」

「何で?じゃあ言うけど、何であたしにばっかり言うんだよ。いっつもあたしばっかり。たまにはあいつの事も叱れよな」

「いっつもって…いつもお前が喧嘩を売ってるからだろ?」

「んな事ねぇよ、あいつが仕掛けて来る時だってあるもの」

 

面白くない。全く、面白くない。天地はいつだってあいつに目をかけてやる。それを責めると決まって天地はそんな事無い、平等に接してるって言うけどそんなの嘘だ。天地が気付いてないだけで、いっつも阿重霞ばかりを贔屓している。

 

「…分かったよ、今度からは一緒に叱るよ。でも、魎呼が一歩引いてくれれば阿重霞さんだって魎呼と喧嘩しようとは思わないんじゃないか」

「何であたしが一歩引かなきゃなんねぇんだよ」

「え…」

「あいつが引けば良いだろう」

 

そうだ、あいつが天地から身を引けばいいんだ。

ぶすっとした顔で、庭先を睨むあたしに、天地は困っている様だった。

 

「…阿重霞さんの事、嫌いか?」

「嫌いじゃない」

「じゃあ…さ、」

「嫌いじゃないけど好きじゃない」

 

誰だってそうだ。別段、阿重霞が憎い訳でも嫌いな訳でもない。ただ厭なのだ。単純に厭なんだ。誰だって同じ。お前の、天地の瞳に映る女は全員厭なんだ。

 

「…魎呼…」

 

横で天地が途方に暮れているのが分かる。でも仕方ないじゃないか、厭なものは厭なのだ。どうしたって変える事ができない。もしできるとすれば、この想いを捨てる時。でもそんなのあたしに出来るだろうか。あたしがお前以外の男に惚れるなんて出来るだろうか。宇宙が引っ繰り返ってもそんな事出来ないとあたしは思う。

 

天地の手の中のかき氷がジワジワと溶けて行く。

蝉が最期の叫びの様に激しく鳴いている。

 

「かき氷やるから、機嫌直してくれよ」

 

困り果てた天地が黙って俯いたままのあたしに手の中のかき氷を差し出す。

そんな子どもだましの手には引っ掛かってやらないぞと思うのに、あたしの手は自分の意に反してかき氷を受け取ってしまう。レモン味のそれは、もう半分以上溶けている。

 

「今度は、魎呼にもりんご飴買ってやるよ。阿重霞さんにだけ買った訳じゃないけど…魎呼の分、買ってやるから」

 

りんご飴の事、まだ恨んでると天地は勘違いしている。そんなのもう気にしていない。

りんご飴じゃないよ天地。あたしの欲しいものは。

 

「そうだ、今度、コンビニに行ったら魎呼の好きなかき氷も買ってやるよ。何が良い?」

「……天地も一緒に買いに行ってくれるのか?」

「うん、良いよ」

「あたしも一緒に行って良い?」

「良いけど…」

「じゃあ、デートだな、コンビニデート」

 

あたしが笑っていうと、天地がえっ!と慌てた。焦る天地の顔は可愛い。

そんなつもりじゃないと言ってももう遅いぜ、天地。あたしはもう決めちまったんだ。

どんなに叱られてもやっぱりお前以外には惚れないって決めちまったんだ。

あたしも大概未練がましいなと自嘲する。

口に入れたレモン味の氷は、少しだけ酸っぱく感じた。

貴方の悲しみを掬い取りたい。

貴方に喜びの全てを与えてあげたい。

ああ 私はこの世の美しきもの全部で貴方を満たしたい。

 

*****

 

阿重霞は柾木家にある裏山を登っていた。

昼時を過ぎても天地が帰って来ないから探しに来たのだ。

 

「天地様ったら、一寸畑に行ってくるなんて言ったきり帰って来ないんですから」

 

畑まで天地に声をかけにやって来た阿重霞を裏山に誘ったのは魎皇鬼だった。

魎皇鬼は天地の匂いのする方に向かって駆け出している。

 

「本当に天地様がいらっしゃるんでしょうね、魎ちゃん」

「みゃあん!」

 

歩いても歩いても天地の元へ辿りつかない阿重霞は溜め息を吐き、足を止めた。

普段、山道など登らない足は、少し歩いて来ただけでもすぐに痛くなる。

風が木々の間を抜けて行く。木洩れ日とはいえ、夏の日差しに阿重霞は汗を拭った。

 

「みゃあん!みゃあん!」

 

魎皇鬼の一際大きな声にハッとして、阿重霞はそちらに足を早めた。

 

「天地様がいらしたんですの?魎ちゃ…」

 

駆け寄った阿重霞は魎皇鬼の姿を見て、目を丸くして立ち止まった。

見れば天地が木々の間で横たわっている。

 

「て…天地様!」

 

一瞬気が動転した阿重霞だったが、天地の横にしゃがみ込み、その息を確認するとほっとした表情になった。

 

「寝ていらっしゃるのね。もう、人の気も知らないで」

 

呑気に寝息を立ている天地を阿重霞は憎らしく思ったが、その緩みきった表情を見ていたら自然とそんな怒りなど消えてしまった。

 

木洩れ日の中で、天地はすやすやと良く寝ていた。

幼さすら残るその寝顔を見ていると、まだ子どもなんだわと阿重霞は感じた。

まだ天地様は自分の夢さえ持てない子ども。そこに私達が押し掛けて、やれ将来だの、血の宿命だの騒ぎ立てているにすぎないんだわ。天地様が望んだ訳ではないのに。

 

阿重霞はそっと天地の髪を撫でてやった。

そう、天地様はまだ子ども。

私が思いを寄せたところで、天地様には大きすぎる愛なのかもしれない。

天地様はこの暮らしに満足なさっているの?

私と逢えて良かったと少しでも思って下さっているの?

私は、私は貴方と逢えなければ、こんなに笑って人生を送っていないかもしれない。

 

阿重霞の脳裏にこれまでの日々が浮かんで来る。

その日々のどれを取っても、阿重霞の瞳には天地が映っていた。

 

天地様。私は貴方から貰ったこの日々を本当に大切に思っています。

本当に幸せで楽しい日々。天地様には感謝してもしきれないわ。

だから、私も―。

 

阿重霞の瞳に愛情が浮かび、慈しみに満ちた表情になる。阿重霞は天地の髪に滑らせた指を自分の膝の上に置いた。

 

もし。もし出逢えて居なかったらどうなっていたのでしょう。そんなの考えたくない。

天地様と暮らした日々が私の全て。でも、時々思うの。私と逢う前の貴方の事を。魎呼が知っている、貴方の小さき頃を。私はその頃の貴方に逢いたいわ。どんな顔をして笑っていらしたの。どんな事で泣いたの。どんな幸せに包まれていたの。

出来るなら…そう、私はお母様に逢いたかったですわ。貴方を真っ直ぐに、優しい人に育てたお母様に。いいえ、逢いたいのではないのかもしれない。

 

「みゃあん」

 

魎皇鬼が阿重霞の指先を舐める。砂沙美が待っているから天地を起こそうと言うのだ。

阿重霞はその小さな頭を撫でてやり、

 

「もう少しだけ、寝かせてあげましょう」

 

と囁いた。

天地は良く眠っていて、魎皇鬼が鳴いても起きる気配がなかった。

ふふ、よっぽど心地良いのね。

阿重霞は天地の肩を優しく、赤子にする様にポンポンとゆっくりと軽く叩いた。

それでも天地は目を開けない。

 

そう。私はお母様に逢いたいのではない。私がお母様になりたかった。天地様の。

突拍子も無い事だと充分理解していたが、そんな考えが過る。

 

天地様のお母様になって、天地様にひとつひとつ喜びを与えたい。生まれてきた喜び、生きている喜び、此処に居る喜びを。美しい花も、星の名前も、季節の移り変わりも、全て教えたい。私が天地様に教えて貰った様に。そして、天地様に降りかかる悲しみの数々を掬い取ってあげたい。私が貴方のお母様なら、絶対に貴方を独りにはさせない、悲しませないわ。

 

この世界の美しいもの全てで貴方の日々を彩りたい。

貴方が私にそうしてくれたように。

私の願いはたったひとつ。ひとつきり。

 

「みゃあああん」

 

お腹が空いたのか、魎皇鬼が待ちくたびれて鳴き出した。もう良いだろうと天地の頬をペロリと舐める。

 

「こら、魎ちゃん。天地様が起きてしまうわ」

 

もう少しその寝顔を見守っていたいと阿重霞は魎皇鬼を止めた。

しかし、風が天地の頬を撫で、天地がゆっくりと目を覚ました。

ぼんやりと視線を彷徨わせ、自分の顔を覗き込む阿重霞の姿を捕らえると、天地は瞬きを数回し、ガバリと身体を起こした。

 

「あ、阿重霞さん!?」

「おはようございます、天地様」

「あ…俺、一寸涼みに来たら寝ちゃって…あれ…どのくらい寝てたんだろう」

「随分と長い事、気持ち良さそうに寝ていらっしゃいましたわよ」

 

焦る天地の様子が可笑しく、阿重霞はクスクスと笑った。

少ししたら帰ろうと思っていたのになあと、天地は困惑した顔でボリボリと頭を掻いた。

 

「天地様、寝癖」

「あ…寝ていたってバレちゃいますね」

 

恥ずかしそうに首を竦める天地に、また阿重霞はクスクスと笑った。

 

「仕方ありませんわ、家よりも此処の方が風が通って涼しいですもの」

「面目無いです」

「みゃあん!」

「あれ?魎皇鬼も来てくれてたのか?」

「魎ちゃんが天地様を見つけてくれたんですのよ」

「そっか、阿重霞さん連れて来たのか。ありがとうな」

「みゃああん!」

 

天地に誉められて喜んだ魎皇鬼が、立ち上がった天地の肩に乗り、嬉しそうに天地の頬を舐めた。

 

二人と一匹は、昼ご飯を作っていた砂沙美が今頃、ろくろっ首になっているかもしれないと笑いながら下山した。

歩きながら、自然と天地が阿重霞の手を取る。

 

「山道は、歩き慣れないと大変ですから。特に下りは」

 

照れつつ、手を繋ぐ天地に、阿重霞は微笑した。

 

「天地様がいらっしゃればどんな所も心強いですわ」

「え、そんな事ないですよ?」

「いいえ、私にとってはそうなのです」

 

阿重霞が言うと、天地は頬を赤くし俯いてしまった。

黙ったまま下を向き、歩いていた二人だったが、足元に咲く花にふと阿重霞が足を止めた。

 

「見て、天地様。綺麗な黄色いお花」

「ああ、本当だ」

「何て言うお花でしょう」

「あー…山の花までは一寸分かんないや。帰ったら、親父の書庫にある図鑑で調べてみましょう」

「ええ、それが良いですわ」

 

美しい黄色い花は、ポッと心に灯が点った様な温かさを感じた。幸福な色だと阿重霞は思った。

再び歩き出す天地に、阿重霞はそのまま足を止め花を見つめていた。

怪訝そうに天地が阿重霞を振り返る。阿重霞は花に視線を落としたままで、呟いた。

 

「天地様、私、もっと知りたいですわ」

「え…、」

「この星の事、この辺りの事、天地様がこれまで暮らして来た日々を私はもっと知りたい」

 

黄色い可憐な花を慈愛に満ちた瞳で見つめる阿重霞に天地は少しドキっとした。

 

「ね、天地様、教えて下さいな。これまでの事。私に沢山教えて下さい。私、天地様のお話が聞きたいです」

 

顔を上げると阿重霞はじっと天地の瞳を見た。愛情溢れる眼差しに天地は目が逸らせずにいた。ぎゅっと阿重霞の指先に力が籠る。その指を天地は握り返しながら、阿重霞に言った。

 

「分かりました、阿重霞さん。昼ご飯食べ終わったら、昔の話しますよ。ああそうだ、写真も見ますか?」

「お写真、ありますの?」

「ええ、多分。親父の部屋か俺の部屋にアルバムがありますよ」

「赤ちゃんだった天地様、さぞ可愛らしかったでしょうね」

「いやぁ、どうかな」

「いいえ、きっと可愛かったに違いありませんわ」

 

阿重霞は目を輝かせそう言うと、天地と共にまた歩き出した。

 

写真でも良い。少しでも良い。貴方に触れたい。貴方の記憶を辿りたい。

いつか、本当にいつの日か、私が貴方の喜びになれるまで、私は貴方の日々を見守り、沢山の幸福で満たしたい。

貴方が私の幸福そのものだから。その心に美しき世界を映したい。

 

阿重霞の嬉しそうな様子に天地もにっこりと微笑んだ。

これが幸せ。今がかけがえのないもの。

阿重霞の心に温かい想いが満ちて行く。

 

「どんなお写真があるか楽しみですわ」

「ご期待に添えると良いんですけど」

 

困った様に眉を下げて笑う天地に、阿重霞は嬉しそうに咲ったのだった。

 

 

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